かほくふるさと展示室ミニ企画展のお知らせ
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うみっこらんど七塚の海と渚の博物館にある「かほくふるさと展示室」は、かほく市の風土や歴史などを紹介しています。今回は、鉢伏茶臼山遺跡をピックアップします。
□鉢伏茶臼山遺跡
場 所 鉢伏、宇野気配水場がある茶臼山
時 代 主に弥生時代後期
遺 物 主に弥生土器、石器
北陸で初めて確認された高地性環壕集落であり、かほく市の弥生時代後期の社会情勢を物語る貴重な遺跡です。
そもそも高地性環壕集落とは、山や丘陵などの周囲より小高い土地に集落をつくり、集落を囲うように壕や土塁を巡らしたものになります。まるで戦国時代の山城のような印象を受けますね。かほく市内には、鉢伏茶臼山遺跡だけでなく、キレイに整備された大海西山弥生の里(大海西山遺跡)も同じ高地性環濠集落になります。環壕の大きさは、鉢伏茶臼山遺跡で総延長約355m、幅約4~6m、深さ約1.4~3m以上を測ります。その当時に重機などは存在しないため、人力での作業を山の中ですることを考えれば、とてつもない作業量になることが想像できます。
弥生時代後期の鉢伏茶臼山遺跡の人たちがこれほどまでの労力をかけてでも、環濠を造らなければならなかった理由は、弥生時代後期が国内で争乱が起きた頃であり、当時の人たちが身を守るための備えとして築いたのではないかと考えられています。
鉢伏茶臼山の眼下には、森や上山田、気屋など沖積地が広がります。現在は水田ですが、弥生時代後期頃は低湿地であったいわれています。もしかすると、この低湿地を利用してある程度の稲作を弥生時代後期の人たちもしていたのかもしれません。
□トピックス
米を本格的に作り始めたとされる弥生時代は、食料の長期備蓄と供給の安定化が進んだものといえます。これに伴い、人口が増加していったものとみられ、ムラやクニといえるような集落同士の繋がりも増えていったものといえます。また、守るべき財産や蓄え、富も生まれ、これを巡っての争いも起こるようになっていきました。
鉢伏茶臼山遺跡や大海西山遺跡から実際に争いや戦いがあったという痕跡は、現在のところ、発掘調査から確認されてはいません。ただし、山や丘陵に環濠を巡らしていたことは間違いなく、争いに備えていたことが伺えます。どこからの攻撃に備えていたのか、当時の地勢はどのようなものだったのか等、謎にあふれています。
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