高松歴史公園(高松口銭場跡の碑・能登街道の碑・鶴彬句碑)
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高松歴史公園解説
のと里山海道高松インターチェンジを降りて北に進むと、高松歴史公園と呼ばれる小さな公園があります。公園内には、次のような石碑があります。
高松口銭(こうせん)場跡の碑
加賀藩は、街道の整備を進め、沿道の主要な村を駅(うまや)に指定し、駅馬の制度を定めていました。高松も能登方面に至る表街道の宿場駅のひとつでした。宿場駅には物流の拠点として各地から物資が集まり、荷問屋と呼ばれる人々の手によって各地の駅へと運ばれていました。口銭というのは、物資にかけられる手数料・運送料・保管料などを意味していました。
高松は海上交通の面でも加賀・能登を結ぶ重要拠点であり、江戸時代中期以降には取り扱う物資の量も増えました。
これらの口銭の徴収を行っていた場所が、口銭場です。
能登街道の碑
口銭場があったことが示すように、藩政期には旧高松町から宝達志水町の宿を通って能登へと至る街道がありました。高松の駅(うまや)はその要衝として多くの宿が並び、能登と加賀を往来する旅人で賑わっていました。その家数は寛政10年(1798年)には160軒、安政2年(1855年)には439軒と、その増加率は津幡の駅(うまや)を凌ぐほどであったといいます。のちに高松は商工業の町として大いに栄えることになりますが、その原点は藩政時代の宿場にあったと考えられています。南町・中町・上北町と呼ばれる町内会の大通りは能登街道の宿場町として賑わっていた頃の面影を残しています。
鶴彬句碑
鶴 彬(つる あきら)本名:喜多 一二(かつじ)は旧高松町出身の川柳作家です。
彼は8歳の頃に父を亡くし、その後叔父の養子となりました。仕事を終え読書にふける日々を送っていた彼は、読書で得た知識を通して自分の思いを言葉で表現してみたいと考えるようになり、川柳を作るようになりました。
川柳に熱中した彼は、地元新聞の柳壇を独占する勢いで作品を創作するようになり、高い評価を得ましたが、一方で反感も持たれることとなりました。不景気の影響によって生活に窮した彼は大阪に出て働き、その頃から鶴彬の号を使い始めます。
鶴彬は、川柳雑誌『川柳人』上で発表した作品が反戦的であるという理由で警察に連行され、その取調べ中に赤痢を患い、昭和13年に息を引き取りました。享年29歳でした。
鶴彬は、日本が軍国主義に邁進していた時代にその社会的矛盾を風刺した川柳を発表したことから、一般的に「反戦」の川柳作家という評価が強調されています。しかしながら、無力な人々の心の救いを川柳に見出そうとしたことや、格下に見られていた川柳を大衆のための文芸に引き上げようとしたことも非常に高く評価されています。
この句碑は昭和47年に鶴彬の友人や同級生などの有志の手によって、高松児童公園に建立され、その後歴史公園に移設されたもので、「枯れ芝よ団結をして春を待つ」が刻まれています。
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